Iorana!(ラパヌイ語でこんにちは)
イースター島では基本的にはスペイン語ですが、島の言葉のラパヌイ語も日常的に使われています。
さて、イースター島は、正式名称はチリ共和国バスクア島といいます。
南太平洋のポリネシアに位置していますが、タヒチからは約4000km、南米のチリからは約3800kmと、まさに絶海の孤島です。
巨大な石の像、「モアイ」で有名ですね。
本日は、モアイとともに歩んできた島民たちが住む、イースター島の歴史を書かせていただきます。
☑ イースター島の人々は、西暦500年頃、ポリネシアからやってきたという説が主流となっています。600年頃には畑が作られ人口が増加し、700年頃にはモアイ像の製作が始まります。モアイ像の製作や運搬で木材を必要とすることで森林破壊による土壌侵食が起こり、農作物の収穫が減りました。また、1000年頃には人口は6000~2万人にいたり、小さな島での漁業と農業でこの人口を支えるのは困難となりました。この人口爆発と森林破壊により飢餓を招き、部族間の争いが起こったといわれています。
☑ 独自の文化を育んでいた島民が、外界と初めて接したのは1772年、オランダ人がこの島に上陸したときです。その日がキリスト教の復活祭の日だったため、「イースター島」と名付けられました。
☑ 19世紀に入ると、捕鯨船など、欧米の大型船が多数上陸するようになります。最大の悲劇は、1862年、ペルー船が島の人口のほとんど(1000とも4000とも言われています)を奴隷として連れ去ったことでした。約1年後、島に戻れた島民はわずか15人でした。
その3年後、1865年、暴君のフランス人ボルニエが君臨します。彼が1876年に暗殺されるまでに、伝染病と虐待により島の人口はわずか111人にまで激減しています。さらにボルニエ暗殺後にやってきたフランス人宣教師が、布教を妨げるとして文化財を焼き捨ててしまいます。島の文化は最終的にキリスト教の伝来により破壊されたといえます。
☑ 1888年、チリ政府はイースター島の領有宣言を行います。1935年 国立公園と歴史的記念物に指定され、1950年代からは遺跡の考古学調査が本格化しました。
☑ 1966年、島民は自治権を手に入れ、マタベリ空港が開港します。
1967年、ラン航空(現在のラタム航空)の定期便が就航し、イースター島は観光地として歩み始めることになります。
1995年にはユネスコの世界遺産に登録され、世界的な観光地となっています。
モアイ像は、1000体もの数があり、大きなものではなんと高さ20mを超えます。何のために作られたのか、どうやって運ばれたのか・・・、ほとんどが謎に包まれたままとなっています。
この神秘さで今も人々を惹きつけてやまないイースター島。いつか多くの皆様に訪れていただきたいです。
Maururu (ありがとうございます)